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020. クリスマスに処刑。…2011年12月25日

 

 


※少々グロい表現・画像があります。

 

自分のやってきたことが返ってきた。

自分のやらなかったことが返ってこなかった。

 

12月25日、クリスマス。

この日に処刑された独裁者の夫婦がいました。

 

ニコラエ・チャウシェスク (1918~1989)

エレナ・チャウシェスク (1916~1989)

 

1989年11月、東ドイツのベルリンの壁が崩され、歓喜に沸き立ったあの日から、まるでドミノのように東欧の社会主義が次々と崩壊していき、それはヨーロッパで最も東に位置するルーマニアにも波及しました。

 

人民の抗議デモ→流血事件→大統領夫妻逃亡、そしてチャウシェスク大統領夫妻の処刑で革命と共にその幕が下りました。

 

ブカレスト市内の群衆、どこかの施設の部屋での簡易裁判の様子や、その後の大統領夫妻の銃殺シーン、目を半開きにして虚空を見つめ息絶えるチャウシェスク大統領の死体が全世界に配信されました。

 

 

当時、私は高校一年生でしたが、一連の報道を見て、強い衝撃を受けました。(;゙゚'ω゚')


■ルーマニア România

 

紀元前1000年頃からこの地方に住んでいたダキア人と、植民したローマ人が混ざってルーマニア人の祖先となりました。ローマ人の血筋を引いているので、ルーマニアは東欧で唯一のラテン系民族の国です。

 

ローマ帝国の支配、オスマン帝国の支配などを経て、1877年に独立。

第二次大戦後の1947年、ソ連の圧力により王政が廃止され、共産化、ルーマニア人民共和国成立。

 

ゲオルゲ・デジは1953年に最高指導者になると、理想とする社会主義建設に邁進しました。

 

デジの後を継ぐことになるニコラエ・チャウシェスクは、学校教育をほとんど受けて

 

いません。しかし、彼は記憶力に優れ、頭の回転が早く、パワーゲームに長けた、いわゆるマキャベリストでした。

 

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最高指導者で共産党書記長だったデジは、権力欲の強いチャウシェスクが自分の後継者として相応しいか疑問を持っていましたが、チャウシェスクは自分が次期トップになるよう立ち回り、デジの死後、党の第一書記に就任、国名をルーマニア人民共和国からルーマニア社会主義共和国に改めます。

 

↓1975年、日本を訪問

着々と独裁体制を進め、1967年には国家評議会議長および同国の元首、1974年に大統領制を導入し、初代大統領に就任し、名実ともに国家のトップとなりました。

 

チャウシェスクのルーマニアは他の東欧諸国とは違い、ソ連ベッタリの社会主義国ではなく、西側諸国へ積極的にアプローチし、アメリカ、フランス、イギリス、スペイン、日本など西側主要諸国へ公式訪問するなかで、改革を達成した共産主義のアピールをおこないました。(1975年4月4日~9日、日本を訪問)

 

1971年に中国、北朝鮮、北ベトナムを訪問し、それら国々の強硬な共産主義体制の影響を受けました。

↓中国訪問 毛沢東と

 

↓北朝鮮訪問 金日成と

 

 

とりわけ北朝鮮では国家を挙げての熱烈歓迎を受け、一糸乱れぬマスゲームを観賞しました。

 

人民が元首のために身を捧げる・・・

「共産主義体制すげえ!!これこそ理想の共産主義体制だ!!」と思ったでしょうね。

 

 

 

当時、絶大な権勢を誇っていた金日成主席とは特に気が合ったようで、その後、お互いの国をたびたび訪問し合う仲になりました。

 

チャウシェスクも、金日成のチュチェ思想の影響により北朝鮮の政治体制を模倣し始めました。

そして、ルーマニアでは金日成のチュチェ思想をルーマニア語に翻訳された書籍が出版されました。

 

今まで政治に参加していなかった妻のエレナも、中国訪問で、毛沢東の妻の江青から「指導者の妻はもっと積極的に政治に関わるべきよ。」と助言されたこともあり、1973年に政治執行委負会の一員となり、1980年には第一副首相に就任、徐々に政治に口を挟むようになりました。

 

そして彼女は、さらに権威を高めるため、ICECHIM(化学研究所)の所長となりました。

 

“エレナ・チャウシェスクは世界的に有名な化学者であり、薬剤師でもあり、数々の名誉博士号を持つ著名な科学者”と称して100以上の論文を発表し、数々の賞を受けました。

↓観劇の席で言葉を交わす江青とエレナ(1971年)

 

しかし彼女は小学生の時に進級を二度も落第し、第4学年で中退したあと学業を修めた形跡はなく、化学でも薬学でも講義をおこなったこともなければ、科学者たちと知識交換をしたこともなく・・・単なる無学・無教養・無知・無能な女でした。

 

彼女が執筆したという論文は、日本でもエレナ・チャウシェスクの名で、「イソプレンの立体特異性重合」という書籍が出版されていますが、これらは個人崇拝させるべく権力を傘にして別の科学者に書かせたもので、チャウシェスクの側近の著作「赤い王朝」でも糾弾されています。

 

エレナは化学や薬学には興味を示したものの、それらのものを理解していたとは思えません。

 

 

↓マニラ大学で名誉博士号を受賞するエレナ(1975年)

 

二酸化酸化炭素の化学記号である「CO(シーオーツー)「コドーイ (ドーイはルーマニア語で2のこと)と読むなど、化学のことなどまるで理解していないことが公然の秘密となっていました。

 

↓他人が書いた論文を出して数々の表彰を受けて喜び&はしゃぐバカ女

 

 

さてこのバカ女、保健管理委員会の委員長にも就任していました。

世界各地でエイズ患者が確認されるようになり、それが東欧諸国にも及ぶようになると彼女は、

 

「共産主義国家にエイズは存在しない。」

 

と根拠のない主張を展開。後のエイズ大流行の原因を作りました。

 

そんな夫妻のムチャクチャぶりに、夫妻の独裁国家たるルーマニアは、1980年代に貿易赤字が2兆円を突破!

経済開発のために西側諸国から130億ドルを超える融資を受けたものの、経済の立て直しに失敗し、莫大な対外債務を背負うことになり、国家財政は破綻寸前となりました。

 


 

■経済破綻→耐乏政策、飢餓輸出

 

輸入を抑え、輸出を多くすることで外貨を獲得する。

 

ルーマニア国内で生産、収穫された穀物や工業製品のほとんどを輸出に回し、莫大な対外債務を9年で完済するが、そのしわ寄せとして、国内で物資が不足し配給制度に・・・。

商店には行列ができ、やっと入手できたものも、どうしようもない粗悪品・・・。

パン一つにさえ事欠く毎日となりました。

 

停電、ガスの不安定供給は当たり前。

暖房を制限され、冬は氷点下の寒さに震える。 

 


 

■国家の私物化

 

窮乏した国民生活をよそに、大統領夫妻は贅沢三昧、国内各地に豪華な別荘を建て、バカンスや狩猟、クルージングを楽しみ、パーティーに明け暮れていました。さらに高価な衣類や宝石、ブランド品を買い漁り、国宝品まで私邸に持ち込んでいました。

 

 

 

 

莫大な隠し財産を持ち、贅沢三昧に明け暮れました。

「彼女と付き合いたい」「悪い虫がつかないように」というドラ息子(ニク・チャウシェスク)の希望通り、ルーマニアの妖精、ナディア・コマネチに勲章と邸宅を与え、特権階級に引き立てましたが、同時に秘密警察を付け、半ば軟禁。

 

憲法を改正し、みずからを任期なしの国家元首と位置付け、政府および党はこの元首の解任権さえ失いました。

反体制派分子を抑え込むために秘密警察(セクリタテア)を創設し、それらを徹底弾圧。

独裁化が進んでいきます。

権力の拡大、独裁化が強化される反面、国民は貧困化が進み、国力は弱まっていきました。

 


 

■国民の館 Casa Poporilui

Casa Poporului

 

 

権力者の最後の大プロジェクトは、国民の館と呼ばれる大宮殿の建設でした。

多くの教会や歴史的建造物を潰し、8万人もの住民を強制退去。

 

長さ275m、幅(奥行き)235m、高さ84m、地上10階、地下4階建て、延べ床面積の総計は33万平方メートル、部屋数3107室、アメリカの国防総省(ペンタゴン)に次ぐ世界第二位の大きさを誇る巨大建造物で、建設費用は当時の日本円に換算して1500億円。

 

部屋の数は3107、国内産の大理石をふんだんに使い、クリスタルのシャンデリアは2800基以上、窓ガラスもすべてクリスタル製、至る所に金銀の装飾が施され、贅の限りを尽くした絢爛豪華な大宮殿です。

 

 


 

■強制的人口増加政策

 

人口の増加は国力の強化とばかりに女性は45歳までに5人の子供を産むことを推奨(なかば強制)され、中絶を認めませんでした。離婚に対しても厳しい制限をつけるなど、徹底した人口増加政策を推し進めましたが、結局のところ失敗し、捨て子やストリートチルドレンを増やす結果となりました。

 

保育所も劣悪な環境で、ミルクにも事欠き、栄養失調で乳幼児を死亡させないためにとった苦肉の策が輸血。

満足な血液製剤ではなく、針も使い回したため、HIV感染が増加してしまいました。

 


 

■1989年12月16日、デモ勃発

 

西部の都市ティミショアラで、人権活動家でハンガリー改革派教会の牧師テケーシュ・ラースロー(ラースロー・テケーシュ)への国外退去処分に対するマジャル人(ハンガリー人)による抗議デモが発生し、治安警察がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る騒ぎとなりました。

 

イランを訪問していたチャウシェスクは急遽帰国、テレビに出演し、抗議デモを非難、徹底弾圧する声明を発表しましたが、しかし、これは国民の不信感を増幅させる結果となりました。

 


 

■1989年12月21日、称賛集会

 

この事件を無事に解決したことを内外にアピールするため、ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催されました。

 

演説が始まって間もなくのところで、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させたことから広場はパニック状態に陥りましたが、治安警察が処理し、ほどなくして集会と演説は再開されました。

 

彼自身も長期政権による独裁とムチャぶりで、英国王室から授かったナイトの称号が剥奪されたり、ルーマニアに見切りをつけた西側諸国の大使が引き上げるなど、みずからの求心力が低下していくことを薄々感じていました。

 

そしてこの集会で今一度国民の支持を高めようと、先日のティミショアラの混乱を無事に解決したことのアピールや、対外債務の完済を説き、今度はその場の思いつきで年金支給額の引き上げ、失業率の低下など、国民に耳障りのいい話題を述べ始めました。

 

隣で称賛する妻のエレナや大統領側近、反面、称賛の声を上げるもののシラケムードの国民…。

チャウシェスクの演説が続く中、群集の中から叫び声が起きました。

 

 

 

「お前は嘘つきだ!!」

 

それを発したのは35歳の技師。拷問・処刑を覚悟して声を上げたのでした。

一瞬、あたりはシーンと静まり返りました。

 

技師は、「自分の人生は終わった。」と思いました。しかしその次の瞬間、別の人が「そうだ!」と叫び、また「チャウシェスクは嘘つきだ!」「大統領を倒せ!」という叫び声も上がり、広場はパニックになりました。

 

これをきっかけに、チャウシェスクを非難する大合唱が起き、もはやそれは止めることができないまでに大きくなりました。

 

チャウシェスク本人は何が起こったのかまるで理解できず、まるでキツネにつままれたような顔つきで、演説を中断したまま二階バルコニーから建物内に引っ込みました。

 

その革命の火蓋は、技師の勇気ある一言によって切って落とされました。

 

群衆は、こぞって反チャウシェスクを叫び、その怒号は時間が経つにつれ、ますます大きくなっていきました。

 

 

 

 

この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは、国防大臣ワシーリ・ミリャに対し、軍隊による群集への発砲を指示しました。

 

しかしミリャは「国防軍は人民を守るための軍隊であり、人民に発砲はできません!」と、この命令を拒否。

翌日(1989年12月22日)、ミリャは自室で死体となって発見されました。(銃弾が動脈を貫き、ほぼ即死状態でした)

 

国営ルーマニア放送は「国防大臣が自殺した」と報じたものの、市民にはチャウシェスクの指示で暗殺されたとの噂が広まり、軍首脳の中にも国防相暗殺説が広がり、大統領に反旗を翻すきっかけとなりました。

 

↓国防大臣 ワシーリ・ミリャ

 

ルーマニア共産党本部前の広場で群集と対峙していた国防軍が反体制派となったことでルーマニア革命が事実上勃発。反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、テレビ、ラジオ局を掌握しました。

 

翌12月22日、大統領夫妻がいる共産党本部はデモ隊と群衆に囲まれ、恐れをなした大統領夫妻は、側近と共にヘリコプターで逃亡しました。

 

空軍の撃墜を恐れたチャウシェスク夫妻は陸路での逃亡に切り替え、途中、国民の車を奪って逃走するものの、12月23日、ブカレスト北西約80キロのトゥルゴヴィシュテ近傍で身柄を確保されました。

 

 

↓共産党本部からヘリで逃亡する

チャウシェスク大統領夫妻


 

■1989年12月25日、裁判~処刑

 

※裁判の様子の主要部分は、松丸 了氏著作の『ルーマニア革命』(東洋経済新報社)から引用しました。

 

ブカレスト市内は市民や反大統領派、ルーマニア軍、秘密警察を巻きこんで銃撃戦が起こり、大混乱に陥っていました。

 

革命の混乱を収拾すべく、トゥルゴヴィシュテにある陸軍の施設の一室で、逮捕された大統領夫妻の二人の裁判がおこなわれました。

 

 

チャウシェスク大統領:

「こんな裁判は認めない!

どんな質問にも大国民議会でのみ答える!」

 

裁判長:

「国民の法廷である。」

 

チャウシェスク大統領:

「大国民議会しか、私は認めない。」

 

裁判長:

「大国民議会は廃止された。」

 

チャウシェスク大統領:

「これはクーデターだ!」

 

裁判長:

「被告起立!」

 

チャウシェスク大統領:

「憲法を読め!」

 

裁判長:

「憲法は読んでいる。憲法を無視したあなたよりよく知っている。」

 

チャウシェスク大統領:

「どんな尋問にも答えない!」

 

弁護士:

「チャウシェスクさん、どんな弁護をして欲しいか、話してください。」

 

チャウシェスク大統領:

「・・・・・・。」

 

裁判長:

「被告、起立!」

 

チャウシェスク大統領:

「この法廷は認められない!!」

チャウシェスク大統領夫妻による、これまでの大量虐殺による罪が問われる。

 

 

 

 

 

 

 

検事:

「大統領は、暖房や電気のない環境で、大量の国民を餓死させ、虐殺したのです。(中略) 夫妻の最も忌まわしい罪は、国民の意思を弾圧したことであります。」

 

チャウシェスク大統領:

「私が国民を餓死させたなんて嘘っぱちだ!・・・まったくの嘘っぱちだ! 私の言い分は、ここ数日、愛国の代わりに反逆がまかり通っていることの証明だ。」

検事が起訴状を読み上げた後、

 

 

検事:

「二人に死刑を求刑する。」

 

チャウシェスク:

「私はこの法廷は認めない。」

 

検事:

「ティミショアラの大量殺人は誰が命令したのか?」

 

チャウシェスク大統領:

「返事はしない。」

 

検事:

「群集を撃てと命令したのは誰か?」

 

チャウシェスク大統領:

「・・・・・・。」

 

検事:

「ブカレストの宮殿前に集まっていた人々に対し、発砲が行われた。 今も射撃が続いている。銃撃を行っているのは誰なのか?」

 

チャウシェスク大統領:

「・・・・・・。」

 

検事:

「あなたが大統領に就任して以来、あなたの命令で、6万人の人が殺された。 今現在、国内のいたるところで発砲している外人部隊は、いったい何者か。誰が雇ったのか?」

 

チャウシェスク大統領:

「・・・・・・。」

 

裁判長:

「被告、答えよ!」

 

チャウシェスク大統領:

「私は、大国民議会以外の場所では、どんな質問にも答えない。」

 

検事:(エレナに対し)

「あなたは読書していると言っているが、内容はわかってないんでしょう?」

 

エレナ:

「んま!なんていう言い草よ!」

 

検事:(チャウシェスクに対し)

「質問に答えない理由は?」

 

チャウシェスク大統領:

「大国民議会と労働者階級の代表者の前で答える。どんな質問にも答える。」

 

検事:

「ここで答えよ!」

 

裁判長:

「法廷の尋問に答弁を拒否、と記録しなさい。」

 

弁護士:(裁判官に)

「チャウシェスク・ニコラエ被告は、ルーマニア大統領の職を解任されたことを知っているかどうか尋問して欲しい。」

 

チャウシェスク大統領:

「私は被告ではない。ルーマニア大統領だ!」

 

検事:

「なぜ、農産物を輸出して、国民をこんなに飢えさせたのか?」

 

チャウシェスク大統領:

「そんな質問には答えない!」 ・・・と一旦回答を拒否したが、「一般市民として答えよう」と前置きして・・・

「各農家は200kgの小麦を受け取っていた。お前の話はウソだ。」

 

検事:

「では、なぜ農民の手元にその小麦がないのか?」

 

 

チャウシェスク大統領:

「ノーコメントだ。・・・一市民として言うが、かつてこれほどルーマニアの農村が発展を見せたことがあったか。私は病院を建て、学校を建てた。」

パン、パン、パンと銃声がする。チャウシェスクは天井を見上げる。

 

 

検事:(エレナに対し)

「あなたの娘の別荘をテレビで見たが、金製の天秤があった。それで輸入肉を計っていた。ルーマニアの肉はよくなかったわけですか?」

 

エレナ:

「とんでもない!」

 

裁判長:

「平等であるべき我々なのに、私はテレビであなた方の贅沢な別荘を見た。」

 

エレナ:

「とんでもない。あれはただの市民と同じアパートよ。」

 

裁判長:

「あの別荘が?」

 

エレナ:

「何の別荘よ? そんなものないわ。」

 

検事:

「被告、チャウシェスク・ニコラエに答えてもらいたい。スイスの銀行口座はいったい…」

 

エレナ:

「何の口座よ。証拠は?証拠を出しなさい!」

 

チャウシェスク大統領:

「外国に口座など、ひとつも持っていない。それは、クーデターを起こした連中の作り話だ。」

 

検事:(裁判長に対し)

「もし口座があるなら、それをルーマニア国立銀行に移してもよいということに同意するかどうか、被告に尋ねてください。」

 

裁判長:

「被告は申立書に署名しますか?」

 

チャウシェスク大統領:

「申立てなどしない。署名もしない。」

 

検事:(エレナに)

「あなたは、チャウシェスク・ニコラエ被告より物分りがいいかもしれない。 あなたは、彼の第一の協力者として、ティミショアラの大量殺人のことを知っていたでしょう?」

 

エレナ:

「何の大量殺人よ?」

 

検事:

「あなたは、この大量殺人に無関係でしたか?それともあなたは、化学の仕事に夢中でしたか?」

 

チャウシェスク大統領:

「彼女は外国でたくさんの本を出している。」

 

検事:

「誰に書いてもらったのだ?」

 

エレナ:

「よくもそんなことを言うわね。私はアカデミーの総裁よ。」

 

検事:

「ティミショアラの発砲は誰が命令したのか?」

 

エレナ:

「どんな質問にも答えない。」

 

検事:

「ミリャ国防大臣は射殺されたのか?」

 

エレナ:

「医者に聞いたら?」

 

検事:(チャウシェスクに対し)

「なぜミリャ将軍をクビにしたのか?」

 

チャウシェスク大統領:

「・・・・・・。」

 

弁護士:(裁判長に対し)

「エレナが精神病かどうか聞いてください。」

 

エレナ:

「下劣な挑発だわ!」

 

この後、論告求刑で検事と弁護士との長いやり取りが続き、法廷は協議のため一旦休廷に入りました。

 

休憩後、再開法廷の冒頭、裁判長は二人に起立を命じたが、二人とも座って判決を聞きました。

 

裁判長:

「当法廷は、司法と国民の名において審理した結果、満場一致で決議したことをここに宣言する!被告チャウシェスク・ニコラエと被告チャウシェスク・エレナに対し、全財産の没収と死刑を宣告する。」

 

 

 ・6万人の大量虐殺

 

 ・国家権力、国内経済の破綻

 

 ・不正蓄財1400億円

 

チャウシェスク大統領:

「私はこの法廷を認めない!!」

 

裁判長:「判決は最終のものです。」

判決が下り、裁判長や検事、弁護人が退廷し、追い詰められた大統領夫妻→

 

 

 

チャウシェスク大統領:

「私たちに触る権利があるのか? お前らのような裏切りがあっても、正しきルーマニアの国民は必ず生き延びるぞ!」

 

エレナ:

「恥知らずが!私が母として育ててきたのに!殺したいなら、二人一緒に殺しなさい。二人一緒に死ぬ権利があるはずよ。」

ロープで二人を拘束しようとする兵士。

まさか拘束され、即刻処刑されるとは思っていなかった夫妻は、暴言を吐きながら必死に抵抗します。

 

 

 

 

チャウシェスク大統領:

「なに?これは何のつもりだ?」

 

エレナ:

「縛らないで、ちょっと!なんで縛るのよ!アタシに触らないで!」

 

チャウシェスク大統領:

「自分の意志のままに行動する権利があるはずだ!」

 

エレナ:

「いやっ!縛らないで!なんで縛るのよ!恥知らずが!私は母としてあなたたちを育ててきたのよ! ここにいられるのは誰のおかげ?恥を知りなさい!」

必死に抵抗する二人。

 

 

エレナ:

「やめて!腕が折れてしまうわ。痛い!痛い!離して!なんでこんなことするの? 国家の母を殺せるものか!!! この恥知らずが!やめなさい!恥知らず!◎◇※@§〆×♂$#!!」

 

 

 

 

兵士:

「もう誰も助けてくれないぞ。」

↓拘束&連行され処刑されるシーン

夫妻の必死の抵抗も空しく、屈強な兵士に拘束され外に連行されました。

 

 

パン、パン、パン、ズガガガガガガガ・・・

 

(゚Д゚;)―・  ズキューン

 

 

 

こうしてチャウシェスク夫妻は、かつて反体制派の人々を抑圧するために自ら制定した法律で死刑判決を受け、即日執行されました。

 

この法律によって、過去20年もの間に6万人もの人が投獄・処刑されたといわれています。おそらくすべての裁判が今回の裁判のように有無を言わせぬものであったのではないでしょうか?

 

この処刑の様子は、テレビによって世界中に配信されました。

 

 

 

 

 

北朝鮮の金日成主席は、盟友であるチャウシェスクが国民や軍に吊るし上げられた揚句、夫婦ともども銃殺刑という無残な最期を目のあたりにして恐怖に震え、みずからの警備体制をさらに強化したそうです。

 


 

ルーマニアは共産主義が崩壊して民主化された後も、経済は停滞しており、貧困から脱却できず、国民の不満が高まり、ストやデモが頻発しているそうです。「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる者もいたそうな・・・。

 

埋葬後、遺体がすり替えられた可能性が指摘され、2005年になって、埋葬された遺体が本物であるかどうか鑑定するよう、親族が訴訟を起こしました。

 

そして2010年7月21日、DNA鑑定を行うために墓から遺体が掘り起こされました。

 

 ↓埋葬後21年経って掘り起こされたチャウシェスク元大統領

 

 

そして法医学の専門家による鑑定が行われた結果、11月3日にはチャウシェスク本人であることが確認され、ニコラエとエレナの遺体であることが確定し、改めて埋葬されることになりました。

 

それまで夫妻は別々に埋葬され、偽名が書かれた墓標を立てられた簡素な墓でしたが、身元の調査後は赤色の大理石の立派な墓が建立され、合同で埋葬されています。

 

 


 

■感想

 

哀れな最期を迎えた独裁者は、ほとんどの場合、「なぜなのだ?私は国家発展のために心血を注いできたのに、なぜこのような最期を迎えなければならないのだ?」と思いながら死んでいっているのではないかと思います。

 

独裁体制が長く続き、国民生活と乖離した場所にいると、側近はイエスマンばかりになり、報告もよい報告しか上がらなくなり、国民の窮乏や怒りは知らない状態になっていくと思われます。

 

実際にチャウシェスク政権末期も、大統領夫妻はそういった環境に置かれ、国民の苦しむ姿は、ほとんど知らない状態であったと思います。

国民生活の視察に訪れても、前もって側近が見苦しい部分を片付け、商店には物が溢れ、清掃の行き届いた公園で人々は憩い、明るく楽しい生活を送っているように見せ、「我が国の治世は安泰である」と・・・。

 

全世界に流されたチャウシェスク大統領夫妻の処刑は、軍人による銃殺刑でしたが、その施設にいた軍の将校たちはこぞって刑の執行に名乗りを上げたそうな・・・。

 

そして夫妻の身体からは300発以上の銃傷があったといいます。かなり恨まれていたんですね・・・。

この様子を目にした、他国の独裁者と言われる指導者たちは、それこそ震え上がり、反乱分子の取り締まり強化に力を注いだのではないかと推察します。

 

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